地区の歴史

原始・古代  別所西野台(別所ハイツのある所)では、旧石器時代のナイフ型石器が出土しています。別所小の校地は、別所遺跡と呼ばれる、縄文・弥生・古墳時代の遺跡です。東校舎改築時に見つかった古墳時代の土器は、市の指定文化財になっています。
 別所小の南側には、別所真福寺貝塚(縄文時代前期)があります。この頃、今の曲坂(大工さんが使う曲尺に似ているのでこの名が付いた。)を降りた辺りは、海でした
中世・近世  別所小の隣の真福寺には、正和3年(1314年)の銘のある板石塔婆があります。また、墓地内には、樹齢数百年の大イチョウがあり、市指定の天然記念物になっています。この木には、「逆イチョウ」の伝説があります。船を繋ぐ杭としてイチョウの木杭を逆に打ち込んでおいたら、枝葉が出てきたという話です。
 別所ハイツ近くのこうれん寺坂の名は、昔、この辺りに「こうれん寺」という寺があったことによると言われています。江戸時代、別所村、白幡村、鹿手袋村は、旗本の知行地や幕府の直轄地でした。与野から鹿手袋にかけて鴻沼という細長い沼があり、農業用溜井として利用されていました。享保年間に、排水路が開削され、代わりの用水として高沼用水が作られました。高沼用水東縁が、鹿手袋を通っています。
 別所公民館の近くにある「まんざらく」というほこらにまつわる民話が今に伝わっています。別所沼から小川ずたいに6,700メートル離れた所にあった沼の浮き島を旅人が一本の杉を植え、沈まない島にしたという話です。「まんざらくさま」のお祭りは、今でも伝えられています。
近代  明治・大正期、別所小地区は、閑静な農村地帯でした。家屋のほとんどが高台に位置し、その周囲は、畑と雑木林でした。白幡の方には、土地が低くて、自分の田に行くのに、他人の田の中を船で行くような所もありました。別所にある稲荷社は、明治40年に今の睦神社に合祠され、その後、元に戻っています。
 昭和9年に17号国道が出来、人口も増えてきました。そして、昭和13年に別所小が誕生しました。
 昔は、今の別所ハイツ付近を西野台、別所小付近を東野(しののめ)台と呼んでいましたが、昭和16年に始まった道路整備にともない、別所小近くも西野台と呼ぶようになりました。しののめ台は、校歌に残っています。
戦中・戦後  第2次世界大戦は、別所小地区にも大きな影響を与えました。別所の戦死者は、57名を数えました。当時の別所小(この頃、名前が4回変わっています。)でも戦時色が強まり、竹槍や薙刀の指導がありました。
 戦後の食糧難の時には、今の体育館辺りをサツマイモ畑にしていたそうです。授業は、午前、午後の二部授業。それでも教室不足で「青空教室」を行っていました。昭和29年には、当時珍しかった鉄筋校舎(今の西校舎)が出来ました。
現在そして
未来
 昭和48年に武蔵野線、昭和60年に新幹線に平行した埼京線が開通しました。
 今、武蔵浦和駅は交通の要衝となり、周辺では、開発が進んでいます。ラムザタワーとライブタワーが完成し、近代的な町並みが整備されてきました。白幡では、空き地が減り、マンションなどが多くなっています。
 近い将来、別所小地区は、にぎやかな町になりそうです。


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